【いじめ加害者の有罪を認めることへのリスク】

デヴィ夫人が【北本市大津市の いじめ自殺問題 悪童連を少年院に送れ! 】を書いていて話題になりました。

いじめた加害者を名指し、そして画像を公開。


芸能人という影響力のある立場の人が、公式に公開することについて、

賛否両論があると思いますが、それはとりあえず脇に置いておきましょう。


記事のなかでデヴィ夫人は、遺族の請求を棄却し、全面敗訴になった判決を批判しておられます。


自殺したいじめの被害者、それから遺族の意を汲んで判決をくだすべきだと。

ただ、私は“いじめ加害者に有罪をくだすこと”に不安を覚えます。


いじめられた被害者の自殺の理由を考えてみると、大きくわけて2種類あると思われます。

①苦しい現実から、生きていたくないと感じる
これは、周りの辛い環境から出ていきたい、耐えられないといった悲痛の叫びです。

②いじめ加害者に対する復讐
私が問題に感じるのはこれです。

自分が死ぬことによって、いじめた加害者になんらかの罰則が下されるのではないかということ。

自分が死ぬことで加害者が後悔すればいい、罰されればいい、という心境。

これは加害者に対する復讐です。


もし、いじめ問題で加害者が罰則されるという判決をくだされたとして、


果たしていじめを減らすことができるのでしょうか?


加害者は「罰せられるからいじめをしない」と思うのでしょうか?

私はもっと陰湿ないじめに変化するだけで、いじめが減ることはないと思います。

それどころか、いじめられた被害者が自殺するケースが増えるのではないでしょうか。


いじめられた被害者が、いじめた人物を恨むのは当然のことです。

ましてや自分を殺してしまうくらい苦しい状況に追いやる人物に、

何の仕返しもできないままこの世を去るということは悔しい。

ただし、自分が死んだことによって加害者になんらかの罰を与えることができるのなら…。

そう感じる人も少なからずいるでしょう。


逆にいじめた加害者に何も罰則が与えられないと知った場合、

②の人は自殺を踏みとどまるかもしれません。

自分の命までかける死が、何の役にも立たない。

加害者を反省させることもできない。

そんな無念の死を自分は何のためにするのだろうと考え直すかもしれません。

いじめた加害者に罰則をしたいという気持ち、

これは遺族の立場から考えてみるとあって当然ですし、

もし私の身に起きたとしたら当然訴えると思います。

ただ、そのこと自体が「いじめ」に対する問題を解決する糸口になるのかどうか。

もう一度問い直す必要があると感じます。

【大津中2自殺事件〜「いじめ」と「いじり」の曖昧性】

中学生がいじめによって自殺したというニュースが報道されて、

著名な方から一般の方まで多くの人がコメントしていますね。




私が「いじめ」と言われてまず思い浮かべるのが「いじられキャラ」です。



よくクラスでいるじゃないですか、むちゃぶりされたりボケをかまされたりして、

みんなから笑われるポジションの人。



あれってすごく曖昧なんですよね。



いじっている側はおそらく「いじめている」という考えはないんです。



いじったときのリアクションが笑ったり喜んだりしているように見えるから

(いじられているほうはたぶんそうするしかないんだと思う)、

いじっている側は「いじめ」ではなく「じゃれあい」だと思って繰り返します。



けれどいじられている側が「いじめられている」と感じたら、もうそれは「いじめ」になってしまう。





かく言う私は「いじられキャラの人って愛されキャラだよなぁ」と呑気に中学生活を送っていましたが、



この間、同級会があったときにびっくりしました。



背が高く優しいので女子からも人気だったNくん。



彼が「俺はあの頃女子たちからいじめられてたよな」と真顔でしみじみ言うのです。



振り返ってみれば、確かに机のなかにスライムを入れられたり、



「Nくんってコケシみたいだよね」なんて笑ったりすることもありましたが、



そんなことをやっていたグループの代表格Mちゃんは、まさしくNくんのことが好きな女の子でした。



アレです。「好きな人のリアクションをみたい」っていう、思春期ならではの.

普通は男女逆だけどね。



それでもNくんはMちゃんを筆頭にいじめられていたと感じていたのです。



私はそのことを説明したのですが、Nくんは「いや、あれはいじめだった」と。



こんなにもそれぞれの思いが食い違うことがあるのだなぁと思っていました。



今回の事件では「自殺の練習をさせていた」とか「死んだ蜂を食べさせられていた」



などの報告がされていて、それを「いじり」と表現しようとは思いません。



だからいじめる側を擁護する気もさらさらないのですが、



「いじめる側」と「いじめられる側」の感じ方の温度差は大きなものであったんじゃないかとは思います。



ただ、いじめにはそれを傍観している「その多大勢」という存在が必ずいるわけで、

その状況を救えるのは彼らしかいなかったとも思うんです。



「いじめる側」と「いじめられる側」の両者と違い、確実に事を客観視できている貴重な「その他大勢」。



巻き込まれたくない、関わりたくないという思いがあるのも当たり前だし、



私だってその立場で動けるかと問われると堂々とうなずくことは難しいです。



ただ、「自分たちは関係ない」という思い込みを捨て

「自分たちだったら何かできる」という自覚は、つねに持っていてほしい。



それってきっと社会に出ても大切だから。



大人になっていくにしたがって、「自分とは関係ない」というスタンスをとりやすくなります。



駅のホームで嘔吐している人がいても「関係ない」。



自分とちょっと距離ある場所にお年寄りが立っていても「関係ない」。



荷物を重そうに持って階段を登っている人がいても「関係ない」。



じゃあもし、嘔吐している人が喉につまらせて呼吸困難になってしまったら?



電車が揺れてお年寄りが転んでしまったら?



階段から転げ落ちてしまったら?



そのときになって「あのとき近くにいた人が助けてあげていなかった」なんて

事後報告してももう時はすでに遅いのです。



「救え」とか「助けろ」とは言いません。



ただ、「自分たちは何かできる」ということは常に心に留めておいてほしい。



そしてそれに続くことばが「それでもなにもしない」という罪悪感であること、



まずはそこから始める必要があるのではないかと思います。